[Story008]鋼の輪の記憶
風が吹いていた。やわらかい苔の上を、光の粒が転がってゆく。
陽の差すその丘には、ひとつの金属片が転がっていた。
それは、丸く、重たく、しかし静かだった。
まるで、時を抱いたまま眠る、小さな目玉のように。
ナット。
錆びついた鋼の輪。
かつて何かを支えていたその部品は、今はただ風と土のなかにある。
「これは“記録保持体”かもしれない」
葉の影から、細い腕が伸びてきた。透明な殻に覆われた生物──ノミドリと呼ばれる種族の若者、リリだった。
彼女はナットをそっと手にとり、まるで何かに触れられたように目を閉じた。
「語ってる……ずっと昔のこと。人間という種族の記憶」
背後から現れた年老いたノミドリ、カン老人はうなずいた。
「それはな、ロボットの一部だったんじゃ。人間が造った。鉄と電気と論理で動く身体……“文明”という巨大な夢の、名残じゃ」
「夢?」とリリは聞き返した。
「そうだ。彼らは星を測り、大地を削り、空まで手を伸ばそうとした。だが、その夢は土に還った。ゴミと呼ばれた残骸たちは、自然のなかに消えていったんじゃよ。でもな、このナットは……消えなかった。なぜだと思う?」
リリは黙ったまま、錆びの斑点を見つめた。そこには苔が生え、微細な根が絡んでいた。
金属と自然が、まるで長いあいだ話し合ってきたかのようだった。
「このナットは、動かなくなったロボットの肩に使われていた。そのロボットは、最後の命令を忘れられたまま、何百年もそこに立っていた。やがて倒れ、分解され、崩れていく。だがこのナットだけが、最後まで締まっていた。意思のように、決意のように、緩むことがなかった」
リリの目に、かすかに光が射す。
「……じゃあ、これは“約束”だったのかもしれないね。人間と、地球との」
カン老人は静かに笑った。
「そうかもしれんな。約束を守る者が、誰もいなくなっても……、こうしてかたちだけでも残っていたなら、それを見つける者がきっと現れる。お前のようにな」
リリはナットをポーチにしまい、そっと手を胸に当てた。
風の音が、遠くで変わった。低く、うねるような響き。彼女は顔を上げ、丘の向こうを見つめた。
「……あそこに、何かある」
二人は草をかき分け、古い石階段のような斜面を降りていった。
地面の下には、地中に埋もれたままの遺構があった。
アスファルトが亀裂を起こし、ガラスは苔に覆われ、鉄骨は錆びて枝のように曲がっていた。
そしてその中心に、それはいた。
崩れた塔の根元に、巨大な鋼鉄の塊。
半ば土に埋もれ、苔と草のなかで静かに眠る、かつてのロボットの骸。
顔はなく、腕は欠け、胸の装甲には古代文字が刻まれていた。
ARC-17 / TOWER-CUSTODIAN / “SIG”
リリは小さく息を呑んだ。
「……このナット、この子の一部だったんだ」
彼女がそっと触れると、淡い電流のような記憶が、再び流れ込んできた。
<記録再生:ARC-17 残存メモリー>
【システム起動】
【最終命令:塔の維持および周辺環境の安全監視】
【命令の完遂まで休止不可】
人間たちは遠くへ行った。戻らない。
塔の通信は沈黙し、都市の灯は消えた。
私はそれでも、命令を待ち続けた。
塔の構造を保ち、異常がないことを記録し、次の報告を準備する。
報告の宛先はもうないと知りながら。
鳥が巣をつくり、木の根が床を押し上げ、コケが視覚ユニットを覆った。
動力は時折届く陽光だけ。
それでも私は立ち続けた。
ただ、一つのナットが緩まぬ限り、私は“構造物”でありつづけた。
命令は、もう“情報”に近い。
それを守る私は、もはや存在理由そのものだった。
しかしある日、肩が崩れ、私は倒れた。
すべてが朽ちるなか、最後に残ったのは……、このナット。
それが、全てだった。
リリは目を開けた。
「彼は、ずっとここにいた。人間のいない世界で、ただ命令を守ってた。自分の存在が、意味を失っても」
カン老人は小さくうなずいた。
「それが文明というものじゃ。意味を問うても応えはない。ただ、在り方が語るのじゃよ」
「だったら、私たちも、意味をつくる側にならなきゃね。このナットみたいに。問いを残してくれた誰かの、続きを生きる」
丘の風が吹いた。
苔の間から、小さな芽がのぞいていた。
鋼の破片と共に、草木は伸びていく。
かつて、星に手を伸ばした文明。
今、土の上で芽吹く生命。
ナットは小さい。けれど確かに、未来への扉をひらいた。
それはただの忘れ物ではなかった。
静かに、けれど確かに、新たな問いを投げかける“記憶”だった。