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[Story007]余白食堂〜サヤと機械の微笑み〜

ここ「満腹区」は、食が溢れる街だった。コンベアに乗せられた料理は、24時間絶え間なく回り、空になったテーブルには自動補充アームが即座に次の皿を運んでくる。

ガラス張りのビルの中には、蒸気の立ち上る味噌汁や、完璧なグラデーションで光るサーモン寿司が、まるでアートのように陳列されていた。

そんな街で、サヤ=イマズミ(23)は、ロボットアームの「表情制御調整士」として働いていた。

華奢な身体に、グレーのツナギ、首元にはくたびれたスカーフを巻いている。

感情を持たないマシンに、わずかでも“気配”を持たせるのが彼女の仕事だった。

「笑顔パターンAからD、どれも違う…Eは少しマシだけど、やっぱり“作ってる感”があるよね」

彼女は、膝の上に載せたスケッチブックをめくる。そこには、無数の“表情”が鉛筆で描かれていた。

どれも機械には真似できない、微妙な揺らぎがある。

サヤの職場は、かつて飲食店だった場所を転用したラボ。壁は和紙のような質感のパネルで覆われ、照明は常に柔らかな夕暮れ色。

中央には試作中の接客ロボットが立ち、その顔には液晶ディスプレイ型の“表情プレート”が埋め込まれている。

「いくら笑わせても、誰も笑い返さないの。…最近、客の表情データ、どんどん無反応になってるって知ってた?」

そう呟く彼女の背後から、同僚のレン=クロサキ(28)が無言で缶コーヒーを差し出した。彼は無精髭に丸眼鏡、いつも油と電磁波の匂いを纏っている。

「知ってるさ。でも上は、“とにかく新表情を開発しろ”の一点張り。需要なんて、後から作ればいいってさ」

レンの言葉に、サヤは小さくため息をついた。

「でも、“お腹いっぱいの人にもっと食べさせる”って…もう無理あるよね」

この街には、もはや空腹が存在しない。飽和した消費の中で、誰もが機械的に口を動かし、感情だけが置き去りにされていた。

人々はテーブルの前で無表情のまま、完璧にデザインされた寿司を見つめている。それはアートではなく、ただの“商品”だった。

サヤが祖母と暮らしていた家には、小さな寿司店が併設されていた。

カウンター越しに、一貫ずつ手渡される寿司。そのたびに客の顔を見て、微笑む祖母の手は、まるで人の心を読む道具のようだった。

「味はね、“ちょうどよさ”が大事なんだよ。上手いも、下手も、その人の顔を見て決まるのさ」

かつて言っていた祖母の言葉が、今でもサヤの胸に残っている。

帰宅したサヤは、自室の小さなテーブルにノートパソコンを置いた。

ログイン先は、廃業した飲食店の3Dスキャンデータを使って建てた“仮想食堂”。仮想空間には、手作りの椅子、傷の入ったちゃぶ台、そして一体のロボットが立っている。

彼女は、そのロボットの表情プレートをゆっくりと描き換えていく。

「完璧な笑顔じゃなくていい。むしろ、ちょっと不器用なほうが…人は、安心するんじゃないかな」

彼女の描く笑顔は、やや左右非対称で、目が少し泳いでいる。けれどどこか、温かみがあった。

それはまるで、機械が“人に追いつこうとする表情”だった。

サヤは笑った。

まだ何も変わっていないこの世界に、ほんの少しの“余白”を残せた気がして。

サヤ=イマズミ ―「笑顔の温度」

あの日、サヤは突然訪れた沈黙に気づいた。

いつものように、接客ロボットの笑顔パターンを確認していたラボ。その時、テーブルに並べられていた寿司皿のコンベアがすべて停止した。都市ネットワークが一斉に過負荷でダウンしたのだ。

「再起動すれば…すぐ戻るでしょ?」とレンは言ったが、サヤは首を振った。

「この街は、“戻る”より、“変わる”ことを選ばないといけないと思う」

それは予兆だった。機械仕掛けの街“満腹区”は、ついに自らの消費と生産の矛盾に耐えきれなくなり、静かに、けれど確かに崩れていった。

アミール=シャン ―「壊す者の祈り」

サヤの余白食堂に最初にやって来たのは、元・自動建築監査官のアミール=シャン(35)だった。彼は街中にある“使われなくなった施設”を見つけては、勝手に解体し、アートのような残骸を作る奇人として知られていた。

「都市は完成した瞬間から死に始める。だから、壊すことで“呼吸”させるんだ」

彼の活動は、都市管理AIから“無許可改変”として幾度も警告されてきた。だが、都市の崩壊とともに、監視も緩くなった今、アミールは自由に動けるようになった。

彼が作る“都市の断片彫刻”は、どこか懐かしい形をしている。割れた自動販売機の中に、手書きのメニュー表。崩れたコンベアの破片を組み合わせた、棚のような構造体。

「ここには、かつて“誰かが工夫した痕跡”があるんだ。それを蘇らせるだけで、空気が変わる」

アミールは、サヤの食堂で一杯の味噌汁をすすった。仮想だが、五感にフィードバックする設定は精巧だ。彼は静かに目を閉じた。

「……この温度、ちょうどいい」

チカ=アオミネ ―「描き損なわれた感情」

都市の壁画チームに所属していたチカ=アオミネ(21)は、かつて食欲を刺激する“感情イラスト”をひたすら描かされていた。

笑顔、笑顔、笑顔──それが上層部からの指示だった。

「食べたくなる表情を描け。感情は不要、記号でいい」

だが、壁画は次第に無視されるようになり、広告効果もゼロになった。チカは筆を捨て、自らが描きたかった“未完成の表情”を、廃ビルの壁に描くようになった。

泣き顔と笑顔の間。怒りと戸惑いの混じった瞳。

それらは人々に“違和感”を与え、そして立ち止まらせた。

「見た人が“考える”壁を描きたい。すぐ理解されなくていい。ただ、心を一瞬止めてくれたら」

そんな彼女が、サヤの「余白食堂」の存在を知ったのは、スラムの壁に貼られた手描きのポスターだった。

食堂の中で、彼女は自分の描いた未完成の表情を、笑顔のプレートに組み込むよう依頼された。

そして彼女は、仮想空間でさえ本気の筆を握った。

カナメ=ニシダ ―「記録の先にあるもの」

ジャーナリストAIの開発に携わっていたカナメ=ニシダ(32)は、都市の崩壊を観察し続けていた。

過剰生産と過剰消費のレポート。幸福度と表情データの乖離。彼は“数字としての社会の終焉”を、誰より早く察知していた。

だが、問題は記録ではなかった。

「記録しても、人は動かない。人を動かすのは、“体験”だ」

彼はドローンカメラを捨て、自らの足で街を歩きはじめた。空腹のない都市で、“渇き”を探す旅だ。

やがて彼は「余白食堂」に辿り着き、メニューのないカウンターに腰を下ろした。提供されたのは、小さな茶碗に入った白粥。具材も何もない、けれど湯気だけは立ちのぼる。

「これが…記録できない価値か」

カナメは、その体験を文字ではなく、物語として書き始めた。

終章:再構築のはじまり

都市は崩れた。フローは止まり、“効率”という幻想は剥がれ落ちた。

けれどその瓦礫のなかから、確かに“感性”が芽吹きはじめている。

絵を描く者、壊す者、記録を語る者、そして“ちょうどよさ”を見つける者たち。

誰かがこう呟いた。

「都市はもう、“食べさせる場所”じゃない。“感じる場”として、生まれ変わるときだ」

そして“余白食堂”は、今日もまた、静かに扉を開ける。

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