[Story006]寄り道の先で
日曜日の午前十時。陽が差し込む窓辺で、遥はぼんやりとカップに口をつけていた。コーヒーの温度はちょうどいい。でも、味はよくわからなかった。最近、なんでも「やらなきゃ」に感じてしまう。休みの日でさえ、ToDoリストが頭の中で鳴っている。
「部屋の片づけ、買い出し、英語の勉強…。そういえば、最近まったく日記も書いてないな」
彼女は会社勤めを始めて三年目。毎日、やることは尽きない。仕事も人間関係も、ちゃんと「意味があること」をこなしているつもりだった。でも、ふと立ち止まったとき、どうしようもない空虚さが襲ってくることがある。
そんなとき、彼女はいつもあの人のことを思い出す。
大学時代、遥には少し変わった先輩がいた。名前は佐久間。文学部の哲学専攻で、研究室にも授業にもあまり姿を見せなかった。でも、キャンパスのベンチや美術館、たまに公園のブランコでふらりと本を読んでいた。
「佐久間先輩って、将来どうするんですか?」
あるとき勇気を出して聞いたことがある。
「さぁね。たぶん、どこかで普通に働いて、普通に生きて、普通に死ぬんじゃない?」
そう言って笑う顔が、妙に印象に残っている。
「でも、無駄が多いほうが面白いと思うけどね。人生なんてもともとオチのない話だしさ」
その言葉を、今になってようやく思い返している。
遥は突然、ソファから立ち上がった。部屋着のまま上着を羽織り、スマホも財布も持たず、外に出た。目的は――特にない。ただ歩きたいだけだった。
近所の川沿いを、ただてくてくと歩く。途中、道ばたの猫があくびをしているのを眺めたり、誰かが落とした手袋がガードレールにひっかかっているのを見つけたり。ふと見ると、古びたベンチに初老の男性が座って、なにやらノートに文字を書いていた。
「こんにちは」と、遥は思わず声をかけた。
男性は少し驚いたように顔を上げたが、すぐに穏やかに笑った。
「こんにちは。お散歩ですか?」
「そうです。なんとなく…意味もなく」
「それはいいですね。意味のない散歩は、心の運動になりますよ」
「……心の運動、ですか?」
「ええ。ほら、体を動かすと健康にいいでしょう。でも心って、意味のあることばかり追いかけると、かえって疲れちゃうんです。だから、ときどき意味のないことをする。すると、不思議と軽くなるんです」
まるで佐久間先輩の言葉を、誰かが別の形で教えてくれているような気がした。
「あなた、何を書いてるんですか?」
「昔の記憶です。くだらないことばかり。でも、僕には大事な無駄なんです」
遥はしばらくその場に座って、一緒に川の流れを見つめていた。
帰り道、空は少し夕焼けがかっていた。スマホを持っていないことに気づき、少し焦ったが、それすらも心地よかった。予定も、連絡も、通知もない世界はこんなにも静かで広い。
家に戻ると、遥は久しぶりに日記を開いた。何も考えず、ただ今日の出来事をつらつらと書き連ねた。
「今日、猫があくびをしていた。川はきらきらしていた。意味はないけど、たぶん大事な一日だった」
そのページを閉じて、遥は静かに笑った。
明日からも、たぶんまたタスクと意味に追われる日々が続くだろう。でも、そんな日常の中に、無意味な寄り道を挟んでみよう。
人生のオチなんて気にせず、少しずつ、自分の物語を歩いていけばいいのだから。