[Story005]落ちた実と、拾い上げた心
森の朝は静かで、どこか神聖だった。差し込む光が葉を透かしてきらめき、小鳥のさえずりが揺れる枝々を撫でていく。
その日、ボス猿の胸はざわついていた。
「また、誰かが俺の手柄を横取りしないうちに…」
群れを率いる者として、彼にはプライドがあった。誰よりも先に、誰よりも高く、美味しい実を見つけ、群れに誇示すること。それが彼にとって、信頼を得る証だった。
だからこそ、誰も気づかぬ離れた枝先に見えた赤い木の実は、まるで自分に与えられた勲章のように見えた。
「俺が取らなきゃ、意味がない」
葉をかき分け、枝を踏みしめ、俊敏に跳び移る。風が耳をかすめ、筋肉が張り詰める感覚に彼は酔っていた。あと少し。手を伸ばせば、あの実に届く。
だが——。
「……っ!」
一瞬の音。乾いた、小さな、けれど決定的な「ミシッ」という音。
足元の枝が割れた。バランスを崩した体は宙に舞い、何もつかめぬまま、彼は重力に引かれて地面へ落ちた。
ドサッ、という鈍い音。視界がぐらつき、背中に響いた衝撃がじわりと広がる。
「……しまった……」
意識がぼんやりとする中で、駆け寄ってくる足音が聞こえた。
「ボス!?」「だいじょうぶ!?」「無理しちゃダメだよ!」
仲間たちの顔が、心配そうにのぞき込んでいた。中には涙ぐむ子猿の姿もあった。誰も彼を責めない。ただ、ひたすらに心配していた。
その瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走った。体の痛みではない。もっと深く、心の奥を突き刺す痛みだった。
(俺は、なんてことを……)
独り占めしようとした木の実。仲間のことより、自分の見栄を優先した自分。そして、それでもなお手を差し伸べてくれる仲間たち。
悔しさ、恥ずかしさ、そして…申し訳なさが、一気に胸にこみ上げてきた。
(こんな俺が、ボスなんて……)
その晩、彼は眠れなかった。枝に横たわりながら、星を見上げて思った。
——変わらなければ。
翌朝、彼は群れの前に立った。普段より小さな声で、けれど真剣にこう言った。
「今日から、木登りのやり方を教える。子猿たち、集まってくれ」
ざわめきが起きた。ボス猿が自分から何かを教えるなんて、初めてだった。
「どうして?」「なんで急に?」
問いかける子猿たちに、彼はゆっくりと答えた。
「お前たちには、俺よりもっと上手くなってほしい。そして…ひとりで登るより、みんなで登る方が、ずっと楽しいってことを、教えてやりたいんだ」
その日から始まった木登りレッスン。彼の教え方は、驚くほど優しかった。枝の選び方、手足の動かし方、そして転ばぬための注意点。時には励まし、時には手を貸し、時には失敗を一緒に笑った。
「先生、ありがとう!」
「また明日も教えて!」
そう言って笑う子猿たちの瞳の中に、自分を誇らしげに見上げる光があることに、彼は気づいた。
(これが、本当の「信頼」ってやつか……)
独占ではなく、共有。競争ではなく、育成。彼は今、かつて見失っていた「仲間」という言葉の本当の意味を、少しずつ理解し始めていた。
今では、「ボス猿」ではなく「先生」と呼ばれることの方が多い。誰かが困っていれば、すぐに手を貸す。何かを見つければ、真っ先に仲間に伝える。
あの赤い木の実は、もうどこに落ちたのかすら覚えていない。
けれど——
(俺は、もっと大事なものを拾った気がする)
風に揺れる枝の上で、今日もまた、子猿の声が響く。
「先生ー!今日はどこまで登れる?」
彼は微笑んだ。
「さあ、みんなで一緒に行ってみよう。てっぺんの景色を、分け合うために」