[Story003]泥のマーケット
クラは、すべてを失った。
投資家からの支援も途絶え、プロダクトはリリース前に頓挫、仲間も離れ、SNSには「また一人、自称イノベーターが沈んだな」というコメントが並んだ。
敗北の理由ははっきりしていた。誰も見向きもしない市場に、勝手に突っ込んだからだ。
「ニッチを攻める」とは聞こえがいいが、実際は“誰も欲していない”場所に、ただ一人乗り込んだだけだった。
その市場が、この「泥沼」だった。
開発途中の製品、仕掛け途中のプラットフォーム、どれも宙ぶらりんのまま。クラはまるで、タイヤが空回りして進めなくなったトラックのように、足元を掘っては沈んでいく毎日を繰り返していた。
ある夜、クラは静かに考えた。
「ここから抜け出す方法なんてない。でも……この泥の中でも何か作れないか?」
そう考えたとき、ふと思い出した言葉があった。ある元起業家が言っていた。
『市場がないなら、自分で作ればいい。ただし、そこに“自分自身”が住めるかどうかを先に考えろ』
クラはノートを広げた。そして泥の中で、新しいプランを書き始めた。
テーマは、「沼の中で生きる人のためのビジネス」だった。
社会にうまく馴染めない人、ルールの外側で生きようとする人、過去に失敗して信用を失った人……そんな人たちが、自分の価値を再構築できる“仮想的な土俵”をつくる。
クラはその土俵を「Reverse Base(リバース・ベース)」と名付けた。敗者が主役になる場所。戦い方のルールを自分で決められる空間。
まずは小さなコンテンツを作った。動画講座、コミュニティ、自己分析ツール、そして「非常識なアイデアを実践するための戦略シート」。
自分で作り、自分で試し、自分で失敗し、そして改善した。
一年が経った。
クラは再び、都市に戻った。いや、正確には「都市が彼を探しに来た」のだった。
大手企業の若手社員が、クラの作ったReverse Baseに匿名で参加していたのだ。既存の評価基準やKPIに疲れ、何か違う世界を探していた。彼らは泥にまみれながら、新しい発想を得て、それを本業に応用しはじめていた。
「“泥”は、汚れではなく、再構築のための土だったんですね」と、ある企業の戦略担当者は言った。
クラは、講演会に呼ばれた。
「市場がないなら、まず“思想”を売れ」
彼はそう語った。
「商品がなくてもいい。あなた自身の“逆転の物語”こそが、最初のプロダクトになる。ルールに従うより、ルールの存在理由を問い直す。そのほうが、長期的に市場を動かせるんです」
聴衆は静まり返っていた。多くはまだ“土俵”を選び直す勇気を持っていなかった。
講演の後、一人の若者が話しかけてきた。
「僕も、今まさに沼にハマってるんです。何をやっても裏目で……。どうしたら抜け出せますか?」
クラは静かに笑った。
「抜け出そうとしないことです。まず、そこで何ができるかを考えてください。“不運”はアイデアの種です。空回りしてるタイヤを見つめ直して、それを逆に利用する方法を探しましょう」
若者は困惑した表情を浮かべたが、少しだけ笑った。
「なるほど……逆転の発想ですね」
クラは今も、泥の上に立っている。
だが、そこにはもう小屋ではなく、オフィスがある。土台は相変わらず不安定だが、それがむしろ創造性を刺激している。
ルールに縛られず、固定概念を捨てて、判断を下し続ける。
それが彼のビジネス、そして生き方そのものだった。