[Story001]叩かれたキーボード
その日、オフィスに激しい音が響いた。
「……またやったか」
周囲が静かに顔を見合わせるなか、チームリーダーの神谷は、ディスプレイの前で額に手を当てていた。画面には「ファイルが壊れています。」という無情な文字。作業中だった提案資料が、ソフトのクラッシュとともに消えたのだった。
神谷は堪えきれず、手元のキーボードを強く叩いた。勢いでキーの一部が外れ、床に転がった。
「クソッ……!」
普段は冷静な彼の、珍しい感情的な一面。けれど、こういうときこそ周囲の目は厳しい。特に新人の高梨は、言葉には出さなかったが、目線が冷ややかだった。
数分後、空気は何事もなかったように戻った。ただ一つ違うのは、神谷の机の上に“壊れたキーボード”が残っていることだった。
その夜、神谷は自分の行動を省みていた。自宅の机に座り、コーヒーを口に運びながら、ふと古い記憶がよみがえる。
――社会人になりたての頃、初めて買ったノートPCを、彼は何より大切にしていた。指紋を拭き取り、キーボードを打つときも優しく。あの頃は、パソコンという「仕事道具」に、どこか尊敬に近い気持ちを抱いていた。
いつから変わってしまったのだろう。
効率、成果、スピードばかりを追ううちに、パソコンはただの「使い捨て可能な箱」になっていた。上手く動かなければ叩き、トラブルがあれば苛立つ対象に。敬意など、どこかに忘れていた。
そして気づく。
――道具に感情をぶつけるようになった自分は、いつからか人にも同じ態度をとるようになっていたのではないか。
納期に間に合わないと、部下に冷たくあたり、焦りを押しつけ、感情で言葉を選ばなくなっていた。それがチームの空気を、確実に曇らせていた。
翌朝、神谷は少し早めに出社した。壊れたキーボードのパーツをひとつひとつ拾い集め、工具を持ち出して修理を始めた。誰かに頼まず、自分で直すことが何より大切に思えた。
修理が終わる頃、新人の高梨が出勤してきた。
「……昨日、驚かせてしまったな。すまなかった。道具に当たるような大人には、なりたくなかったんだけどな」
神谷の言葉に、高梨は少し目を丸くした後、うなずいた。
「直されたんですね。そのキーボード、もう買い替えるのかと思ってました」
「いや、まだ使える。直して、使い続ける。そういう“向き合い方”を、忘れてたかもしれない」
その日、神谷のデスクの上には修理されたキーボードが戻っていた。目立たないひびと、少しだけ沈んだキー。だがそこには、壊れたまま放置された昨日とは違う「姿勢」があった。
道具に敬意を払うというのは、パフォーマンスではなく、心の持ち方だ。
そしてそれは、仕事や人間関係、すべてに通じる“自分磨き”の第一歩になる。
壊れたキーボードは、神谷にとって「何かを取り戻すきっかけ」となった。