世界を変えるのは一言から – HLHS0043

春、新しく社会人になった若者たちが、地方から都市部へ出て一人暮らしを始める季節だ。

白田真人は今年社会人デビューをした一人で、「さくら荘」に引っ越してきたのは、春先のまだ夜が冷え込む時期だった。

二階建ての木造アパートは築三十年以上経っていて、外壁の塗装は剥がれ、通路の鉄柵はうっすら錆びている。駅からは徒歩十五分。家賃の安さに惹かれて選んだのだが、初めて鍵を差し込んだときから、どこか寂れた空気がまとわりついていた。

隣室からは、かすかにテレビの音が漏れてくる。廊下を通る足音は妙に速く、視線が合うと一瞬で逸らされる。

「みんな忙しいのかな・・・。」

最初はそう思おうとした。けれど一週間も暮らせば、それが忙しさだけではないことに気づく。

夜、ゴミ袋を出しに行くと、すぐ後ろを歩いていた主婦らしき女性が、わざわざ数歩距離を取って別の道へ進んだ。階段ですれ違った大学生はイヤホンを耳にねじ込み、こちらの存在をなかったことにする。言葉はない。目も合わせない。

真人は、知らぬ間に自分まで口をつぐみ、目を逸らすようになっていた。

隣の部屋に住む坂井という男の存在には、早い段階で気づいていた。四十代半ばほど、やや痩せ気味で、帰宅するときは必ずうつむいて早足で通り過ぎる。ドアを閉める音は重く、時折、中から缶ビールのプルタブを開ける音が響く。

ある朝、郵便受けの前で坂井と鉢合わせた。

「・・・・・・。」

互いに黙ったまま、封筒を手に取る。視線がぶつかりそうになると、坂井はすぐに俯いてきびすを返した。

真人の胸に、言葉にならないもやもやが溜まる。

(・・・同じ建物で暮らしているのに、こんなに壁が厚いなんて。)

翌朝も出勤前、玄関を出ると坂井がちょうどドアから出てきた。いつもなら無言ですれ違うだけの瞬間。けれど、なぜか真人の口が勝手に動いた。

「おはようございます。」

声に出した瞬間、空気が張りつめたように感じた。坂井は驚いたように顔を上げ、目を丸くして固まる。数秒の沈黙。やがて、ほんのわずかに顎を引いて、無言のまま去っていった。

真人は一人、階段を降りながら思わず苦笑した。

「やっぱり変だったかな。」

だが不思議なことに、心の奥が少し軽くなっていた。

そのまた翌朝も、玄関を出ると偶然坂井と鉢合わせた。昨日と同じように、郵便受けの前で立ち止まっている。

真人は意を決して、もう一度声をかけた。

「おはようございます。」

今度は坂井の肩が一瞬びくりと震えた。振り向きざま、ぎこちなく口が動く。

「・・・、ああ。」

それは返事と呼ぶには小さな、かすれた声だった。けれど真人にとっては確かな変化だった。

階段を下りながら、胸の奥に温かいものが広がる。

(壁が少し薄くなったような気がする。)

坂井に返事をもらえた次の日。真人は、廊下の向こうから大学生の吉田と鉢合わせた。

白いイヤホンを耳に突っ込み、スマートフォンをいじりながら歩いてくる。背は高いが、姿勢は少し猫背気味だ。

真人はためらいながらも口を開いた。

「おはよう。」

吉田は一瞬こちらを見たが、表情を変えずにイヤホンの音量を上げ、そのまま通り過ぎた。廊下に残された真人の声が、薄い壁に吸い込まれていく。

(まあ、そうなるよな・・・。)

胸の奥で小さな棘が動いた。

数日後、買い物袋をぶら下げたとき、今度は一階の主婦・三浦とすれ違った。彼女は三十代半ばで、きっちりまとめた髪に神経質そうな表情を浮かべている。

「こんにちは。」

声をかけると、三浦は返事をせず、代わりにドアをバタンと閉めて中へ入ってしまった。

階段の上で取り残された真人は、思わず苦笑した。

(挨拶って、こんなに警戒されるものなのか・・・。)

それでも挨拶を続けることをやめなかった。朝、ゴミを出すとき。夕暮れにコンビニ袋を提げて帰るとき。相手が無視しても、ドアを強く閉めても、対面した時は必ず真人は「おはようございます」「こんばんは」と声をかけた。

『挨拶はな、他人と交わす最初の敬意なんだ。』

こう教えてくれたのは、真人の父だ。

真人は自分でも意識していなかったが、挨拶という行為は大切な行動なんだと信じていたのだ。

一週間ほど経つと、ほんのわずかな変化が見えてきた。

吉田は依然としてイヤホンを耳にしているが、目を逸らさずに軽くうなずくことがあった。三浦はドアを閉める前に、一瞬だけこちらを見て唇を結ぶ。返事にはならないが、最初の完全な無視よりは確かに柔らかい。

真人は気づく。

(壁が崩れるって、一瞬じゃなくて、こういう小さな綻びから始まるんだ。)

ある朝、出勤前に階段を降りようとすると、一番端の部屋のドアが開き、老人がゆっくりと現れた。七十を過ぎているだろうか。背は小柄で、杖代わりに手すりを握りしめている。白髪はぼさぼさだが、身なりはきちんとしていた。

田所は、一段降りるごとに肩を揺らし、慎重に足を運んでいた。真人は思わず声をかける。

「おはようございます。」

田所は顔を上げ、しわだらけの口元をゆっくりと緩めた。

「おはよう。若い人から声をかけてもらうなんて、久しぶりだよ。」

その一言に、真人は胸を打たれた。挨拶はただの習慣だと思っていた。でも、この人にとっては心を温める灯りなのだ。

「今日一日が少し明るくなった気がします。行ってきます。」

真人は階段の下で軽く会釈し、笑顔を返した。

それから月日が経った夏の盛り、さくら荘のゴミ置き場が騒がしくなった。燃えるゴミの日ではないのに、袋が数個放置され、強風に煽られたのかカラスが荒らして通路まで散乱していた。

真人は帰宅途中、ゴミの山に足を止めた。

「ああ・・・、やっぱり誰かがルールを守らなかったのか。」

すぐに一階の主婦・三浦が現れ、腕組みをして睨む。

「また勝手に置いたのは誰よ!本当にいい加減にしてほしいわ!」

二階からは大学生の吉田が降りてきて、スマートフォンを片手に眉をひそめる。

「チッ。毎回、片付けるのって僕たちだけかよ。」

声は小さいが、怒りと苛立ちが通路に滲む。真人は立ちすくむ。壁の空気がギシギシと音を立てているかのようだった。

そのとき、坂井がドアの陰から出てきた。いつも通り無表情だが、目がわずかに泳いでいる。

「・・・、僕じゃない。」

三浦はすぐに反論する。

「だったら誰なのよ。毎回あなたの部屋の近くにゴミが落ちてるじゃない!」

言葉は鋭く、通路に響いた。真人は思わず口を開く。

「ちょっと待ってください。まず片付けましょう。みんなでやればすぐに終わります。」

坂井と三浦が目を合わせ、吉田もスマホをポケットに入れた。

「みんなって、手伝うのか?」

坂井が小声で言う。

真人は頷く。

「誰かを責めるより、まず片付ける方がいいです。」

四人で袋を集め、散乱したゴミをまとめる。手伝いながら、真人はあえて笑顔を作った。

「やっぱり、一人で片付けるより楽しいですね。」

坂井は少し顔を緩め、汗を拭きながら小さく答える。

「あの・・・、すまない。」

一階の三浦も最初は黙ったままだったが、最後には小さな声で「ありがとう。」と言った。

途中から、田所も降りてきた。騒動の音を聞いて、手伝おうとしてくれたが、高齢の体に無理させないように促した。

さくら荘の住人が、この騒動によって初めて勢揃いしている、なんだか不思議な時間だった。

その後、ゴミ置き場には「ゴミの日を守りましょう」と控えめな張り紙が貼られ、住人たちはわずかに表情を柔らかくした。小さな変化だったが、真人は確かにそれを感じた。

それから数日、アパートの空気は少しずつ変わり始めた。

吉田はイヤホンを耳にしていても、通りすがりに軽くうなずくようになった。

三浦はドアを閉める勢いが優しくなった。

坂井は朝の挨拶を返す頻度が増え、笑顔こそ少ないものの、目が柔らかくなった。

ある朝、真人は階段の端で田所老人と鉢合わせした。杖代わりに手すりを握りながら、慎重に一段一段を降りてくる。

「おはようございます。」

真人が声をかけると、田所は顔を上げ、にこりと笑った。

「おや、おはよう。若い人からこうして言葉をもらうと、朝から気持ちが明るくなるよ。」

真人は階段の下で軽く会釈し、笑顔を返す。その瞬間、自分が投げた小さな言葉が、相手の中で確かに生きていることを実感した。

通路を見渡すと、少しずつだが、住人たちの表情や動作に柔らかさが生まれていた。ギスギスした空気は完全に消えたわけではない。しかし、壁は薄くなり、光が差し込む余地が生まれていた。

真人は心の中で小さくつぶやいた。

「世界を変えるのは大きな力じゃない。こうして、少しずつでいいんだ。」