[Story009]沈黙のあとに残ったもの
「言わないほうが、きっと楽だよ。」
そう思ったのは、ほんの些細な場面だった。大学の帰り道、カフェで友人のマナが、ため息混じりにこう言った。
「ねえ、最近サークルのグループLINE、ユウキの発言ちょっとキツくない?あれ、誰も突っ込まないのが逆に怖いんだけど。」
マナは、ちょっとした言葉のニュアンスに敏感なタイプだ。そういう気づきを共有してくれるのは嬉しいけど、今回の件について私は、実は正反対の感想を抱いていた。
(え、あれってむしろ的確じゃなかった?)
でも、それを言ったら場の空気が変わる気がした。わざわざ波風立てることもないかと、私は曖昧に笑って「うーん、まあね」とだけ返した。
その沈黙が、最初の選択だった。
それから少しずつ、マナとの会話にズレを感じ始めた。
「最近、カナってあんまり言わなくなったよね。なんか、どこか遠い感じがする。」
ある日、不意にそう言われて、返す言葉が見つからなかった。
(それは、私が言わなかったから? 本音を閉じ込めて、あなたに合わせてきたから?)
心の中では、ずっと「これは優しさのつもり」だった。でも、それは本当に優しさだったのだろうか。
ある日、グループでの話し合いの場があった。今後の活動方針について、意見が割れ、場が静まり返った。皆が言葉を選び、空気を読み、結局、誰も核心に触れないまま時間だけが過ぎていった。
(誰かが言えば、きっと進むのに。)
そう思った瞬間、私は口を開いた。
「……私、思ってたことがあるんだ。前にユウキの発言をキツいって話が出たけど、実はあれ、私にはすごく助かったんだ。遠回しじゃなくて、ちゃんと指摘してくれたから。誰かが言ってくれないと、気づけなかったから。」
場が一瞬、凍る。でも、少ししてユウキが笑った。
「ありがと。実は、空気読めてないって思われてるのかなって、ちょっと気にしてた。」
他のメンバーもそれぞれに思いを言い始めた。不器用な言葉だった。でも、そこには確かな熱があった。
そして、マナがぽつりと呟いた。
「……なんか、ごめん。私、自分の気持ちばっかりで、人の受け取り方まで考えてなかったかも。」
帰り道、マナと二人になったとき、私は静かに言った。
「私もね、ずっと言えなかった。マナの前で本音言うの、なんか怖くて。あなたに嫌われたくなくて、合わせちゃってた。」
マナは黙って歩いていたが、やがて立ち止まって、こちらを見た。
「ねえ、これからはさ、本音で話そう。ちょっとくらい傷ついてもいいから。そっちの方が、ずっとちゃんとつながってる感じがする。」
その言葉を聞いて、胸の奥がじんわりあたたかくなった。
あのとき、もしまた曖昧な返事をしていたら、私たちはきっと、何も変わらなかっただろう。
言わないことで守れる関係もある。でも、言わなかったことで、失ってしまうものもある。優しさと忖度の境界線は、案外あいまいだ。
でも、たとえぎこちなくても、本音で向き合うことでしか得られないものがある。
それは、言葉のあとにやってくる沈黙の中に、確かに残っている。