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[story004]釣り方を教えてくれた男

序章:空白のなかで

木村健太、27歳。中堅の広告代理店に勤めて5年目。同期の中ではそこそこの成果を出していたが、最近、どこか気力が湧かなかった。

日々のルーティンに追われ、残業と数字のプレッシャーに潰されそうになりながらも、なんとか踏みとどまっていた。ある夜、ふと開いたSNSのタイムラインに、一つの広告が目に止まった。

《成功者続出!あなたの可能性を解放する3時間!人生を変えるセミナー》

そして、思想家『老子』の格言を引用した有名な一文が続く。

「魚を与えるのではなく、釣り方を教える」

そんなフレーズが太字で掲げられていた。健太はその瞬間、なぜか心を掴まれた。「自分に釣り方が足りない」と感じていたからかもしれない。

(これで何か変わるかもしれない)

藁にもすがるような気持ちで、彼はそのセミナーに申し込んだ。

第一章:成功の型

セミナー会場は、都心の高層ビルにあった。スーツ姿の若者が多く、皆どこか不安と期待が混ざったような目をしていた。

「本日は、あなたの人生を“本気”で変えるためにお越しいただきありがとうございます!」

登壇した講師は、元証券マンで今は投資家、事業家、作家としても名を馳せる人物だった。彼の話し方は巧みで、ユーモアも交えながら聴衆の心をつかんでいく。

「成功する人としない人の差は、“行動力”です。知識より実践。迷う時間があるなら動け!」

会場は何度も拍手に包まれ、空気はどんどん高揚していった。

彼が紹介する「釣り方」は明快だった。早起き、自己暗示、SNSでのブランディング、そしてマインドセットの変革。すべて教材として用意されており、「このパッケージで人生が変わる」と豪語していた。

「行動できる人は、今ここで決断できる人です。成功したい人、手を挙げてください!」

周囲の参加者が次々に手を挙げ、受付に並び始めた。健太は立ち尽くしていた。講師と目が合った。

「迷っているあなた、チャンスはいつも、“今”しかないんです」

(そうかもしれない。でも……)

健太は、その場で申し込むことができなかった。

第二章:違和感の種

セミナーの後、何か胸に小さな異物が残ったまま、数日が過ぎた。上司からは「最近覇気がないな」と言われ、同僚は副業を始めた話で盛り上がっていた。

健太は、ふと思い出した人がいた。会社を辞めて地方に移住した元先輩の佐伯。営業のエースだったが、突然退職し、今は長野でカフェを営んでいる。

迷った末に連絡を取り、週末を使って佐伯の元を訪ねた。小さな駅前にある木造のカフェ。店の看板には手書きの文字で「Saeki’s Nest」と書かれていた。

「久しぶりだな、健太。元気そうじゃないか」

佐伯はエプロン姿で、昔と変わらぬ穏やかな笑みを浮かべていた。

第三章:釣り方の本質

コーヒーを啜りながら、健太は一連の話を打ち明けた。

「……あのセミナー、何かが違う気がして。でも、周りはどんどん前に進んでるみたいで、焦って」

佐伯はうなずきながら、窓の外を見た。

「俺も行ったことあるよ、ああいうセミナー。話術もうまいし、刺激になる。でもな、成功の“型”っていうのは、ある意味で“商品”なんだよ」

「商品……ですか?」

「うん。たくさんの人に売るためには、“誰でもできる”“すぐできる”って見せないといけない。でも、本当は、釣りってそんな単純じゃない」

佐伯は、子どもの頃に父親と釣りに行った話を語った。川の流れ、風、エサの種類、魚の気分。釣るには観察し、考え、試す必要があったと。

「人それぞれ、釣る魚も場所も違う。だから、型だけじゃうまくいかない。むしろ、自分に合った釣り方を編み出すのが、本当の“学び”だと思うんだ」

健太の中で、霧が少しずつ晴れていくのを感じた。

終章:自分だけの釣り場へ

東京に戻った健太は、少しずつ日々の中で「思考する時間」を増やすようにした。SNSを無理に更新するのをやめ、数字だけを追う習慣から距離を取った。

やがて、彼は自分が本当にやりたいことに気づいた。それは「人が自分らしく働ける場をつくること」だった。会社の制度に縛られず、自分で学び、自分で試せる仕組み。それを小さくてもいいから形にしようと、仲間とプロジェクトを立ち上げた。

あのとき買わなかった情報商材の中身は、今も知らない。でも、自分の頭で考え、自分の足で歩いたその道は、確かに彼だけの“釣り方”を育てていた。

ふとスマホを見ると、佐伯から一通のメッセージが届いていた。

《最近どう?釣れてるか?》

健太は笑って返信した。

《まあまあ。でも、試行錯誤も楽しいですよ》

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