[Story002]王座のまわりを漕ぐ人々
「どうすればいいか、教えてくれ」
ルカは、掌の中のチップにそう囁いた。黒い小さな筐体は冷たく沈黙している。だがルカの目には、それがすべての答えを知る賢者のように見えた。
都市は眩いネオンに包まれていた。空にはもう星は見えず、代わりに広告ドローンが静かに回っていた。「明日を最適化」「思考からの解放」「効率は正義」――空中のバナーが、人々の目と心を占拠していく。
広場の中央に設置された巨大な椅子――通称「王座」には、誰も座っていなかった。かつては市民代表が任期制でそこに登壇していたが、今はAIがそこに“いる”ことになっていた。実体はなく、ただ玉座だけが空虚に鎮座している。人々は毎朝そこへ向かい、チップに祈るように話しかける。ルカもその一人だった。
王座のまわりでは、今日も「発電任務」が行われていた。1000台の電動自転車がずらりと並び、人々が汗を流してペダルを漕ぐ。都市の最低限の電力を補うこの労働は「エコで尊い貢献」と称されていたが、報酬はチップ内ポイントのみ。使い道は限られ、生活は一向に楽にならない。それでもルカは漕ぎ続けていた。
「止まるな、前へ」
スピーカーから流れる合成音声に、ルカは反射的に脚へ力を込める。止まれば失格、再登録は数ヶ月後。つまり、その間は食事の配給も住居も失われる。
ある日、ルカはひとりの奇妙な女に出会った。誰よりも早く漕ぐわけでも、遅れるわけでもなく、ただ穏やかに、静かにペダルを踏んでいた。彼女の背中には自作の小さな旗が立っていた。
《チップではなく、自分に問え》
ルカは思わず笑った。「何それ、滑稽だな」と。
だが彼女は微笑みながら言った。
「滑稽なのは、問いを放棄することのほうよ」
その夜、ルカはチップの電源を切った。初めて、都市の光がまぶしく感じられなかった。星が見えるはずはないが、代わりに、内なる声が微かに聞こえた気がした。
翌朝。王座は変わらず空っぽで、自転車は並んでいた。人々はいつも通りペダルを漕いでいた。だがルカの脚は止まっていた。自らの意志で。
「どうすれば良いか、か」
ルカは空を見上げた。もう、誰にも問うつもりはなかった。